デジタル・デトックス

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先日、v-tubeとの共演を見た。ステージではプロピアニストが演奏。演奏の合間にv-tuberの画面と音楽論を交わす。 v-tuberはアバターでピアノ鍵盤上の指を含め顔もアバター。音声は遅延なく相手方に届く。5G、6Gの通信技術ならばこそ実現するやりとりに新しい時代を感じた。

 

昭和の頃は海外からのリポートでは画像と音声がずれることが一般的だった。ずれるならまだしも、音声の強弱が波のように強くなったり、弱くなったりの時代もあった。得られる情報が少ない分、想像・空想で埋め合わせていた。時にはそれが海外への憧れとなった。

それが今や高速大量通信時代となるとスマホの数の情報発散基地が形成されることで、逆に数の面で少ない地上波放送が揺らぎ始めた。SNSは大量ゴミと揶揄するところはあるが、ゴミの中に時として宝物があるように、ゴミと宝物を選別する力も養生されてきた。

先週 横浜パシフィコで電磁波展示会があり、兵庫県から参加した大学、企業の人と知事選の話題になり、若い人ほど元知事一択だったとのこと。

地上波を見ない若者だからかと言えば、そうでもなく、地元だけに元知事の実績を見ての判断だったとのこと。知人に偏差値74と愛媛県屈指の進学校である愛光学園出身の東京在住の人がいる。地上波の影響を受けて「酷い後輩がいるもんだ」と元知事を非難していた。後で真実を知って、あの愛光に限ってないと思っていたと見事な情弱ぶりを披露。彼に限らず遠い地域のシニア層では共通していた。

偏った情報が怒涛のように押し寄せる時には注意が必要なのは戦時中のマスコミがあった。それが形をかえて残っているのだろうか。 としたら解決にうけ手サイドの「デジタル・デトックス」があるのかも。

電車内で暇つぶしのスマホを見るのは許されるが、降車する時も画面を見ながらゆっくりと降りてくるとなると「いい加減にしろ」と言いたくもなる。道を行き交う時も視線はスマホ画面。その人を避けるのは当方。これも「いい加減にしろ、勉強なら許してもいいけど」的なニュアンス感覚がある。

だが、これは当方の身勝手な思いかもしれないと思い始めた。

自分自身パソコン操作時間が長い。メール、試料作成、その間にX、FB、Lineのチェックして、再びパソコンに戻る始末。YouTubeでバックミュージックを流しながら。これをデジタル中毒と言わずしてなんというか。

この流れを一旦止めて、休憩か全くタッチしない日を設けるのもありとデジタルデトックス提唱者は言う。

一般的に言われているのは、ノーベル賞の約40%、世界の金融を抑えているのはユダヤ人であり、成長の背景には徹底した休息日シャバットがあるからだとの説がある。ガムシャラに働いて成長した日本と、取るべき安息日を守って成長したユダヤ人。面白い比較。

働きバチ対策の国民休日を増やせば良いと考えた日本とは確かに本質的に違うところはあるのだろう。 ここで、スマホもパソコンも家に置いて温泉に浸かることができるのは日本。温泉での休暇は神様が与えた日本民族の次なる発展へのツールかもしれない。行きたいなぁと言ってパソコンで調べるようでは、そう簡単には解毒しない。

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