高校の国語教師はNHKアナウンサーから転職した青年だった。洗練された語り口は生徒仲間の言葉とは圧倒的な差があった。標準イントネーションに品があり安定感があった。赴任挨拶が校内放送された時の女生徒の驚きは凄かった。声だけでモテるのだと。一方、漢文の教師は日本語の読み下し(レ点)で生徒に内容を理解させた後で、漢詩当時(呉時代など)の発音で漢詩を朗読。水墨画の世界を想像させた。

標準語は明治維新以後の統一言語として制定されたが、一方で地域ごとのワードとイントネーションが生活言葉として利用されている。高校時代の漢詩教師の朗読には韻を踏むことで言葉以上の含む意味があることがわかった。それが制定された標準語以外のところにはある。「方言とか訛り」のような上から目線は非常に浅いし愚かでもある。時には背景・歴史を知らないと致命的でもある。 最近の事例を紹介する。

京都生まれと聞いていた女性に保険営業をかけたが良い返事をもらえなかったと愚痴を漏らした知人がいる。営業マンは会話の流れで「訛りがないですね」と話した時から雲行きが怪しくなったとのこと。「あぁ致命的なミス。これで終わった。諦めろ」とアドバイスした。営業マンの出身地を聞いたら○○県。大学からは東京だとのこと。訛り修正の苦労があったのかも知れない。

京都の人は明治以前には京ことばが標準語であって、営業マンは「訛り」のニュアンスに含まれる意味を理解していなかったのだ。

1)「訛り」という言葉のニュアンス  「訛り」という言葉は、多くの場合、標準語からのずれや、聞き取りにくい話し方といったネガティブなニュアンスを含みがち。そのため、京都の人は自分たちの言葉を「訛り」と表現されることを嫌う。

2)「京ことば」の独自性 京ことばは、千年の都として栄えた京都で生まれた、歴史と文化に根ざした言葉。御所言葉や町衆言葉など、さまざまな要素が混ざり合い、独特の言い回しやイントネーションを生み出している。

3)「京ことば」という表現 京都の人は、自分たちの言葉を「京ことば」と表現することを好む。これは、京都が日本の中心地であった歴史的背景や、共通語とは異なる独自の言葉であるという認識が背景にある

4)共通語との違い。「京ことば」は、共通語とは異なる独特のイントネーションや語彙を持つため、共通語を基準に考えると「訛り」のように聞こえるかもしれないが、京都の人は、単なる異なる言葉遣いであり、優雅で上品な印象を与えるものとして認識されている。本音でダイレクトの物言いはしない。察する会話を子供の頃から鍛錬されている。

5)一口に関西弁と括られるが、神戸には洗練された「神戸ことば」があり大阪では淀川水系を通じて商売が行われていた「船場ことば」「摂津ことば」がある。これも上品なニュアンスがある。とかく誇張されやすい大阪弁とは異なるので分離しておく必要がある。関西地区に転勤や移住される人は注意された方が安全かと。

京ことば、神戸ことば、船場ことばに限らず、日本には地域独特の言葉がある。標準語より親密さ、あたたかさを感ずることがあり(理解できない時でさえ)微笑ましいと思う。日本各地には長い時間をかけて育まれた独自の文化や伝統、そしてそれを伝える言葉が存在する。また武家社会時代は領有地防衛のため(隠密防止)や、幕府による移封による言葉の混合もある。それらを知ることで歴史を学こともある。かえってそれらに対する関心の低さや、無意識の優劣意識は、近代化の過程で失われた、あるいは軽視されてきた文化的な豊かさを示唆しているとも言えないだろうか。

冒頭の高校時代の続き。倫理・哲学の教師はフィラデルフィアで生まれの日本人。60歳になって帰国して高校に臨時教員として赴任。話す言葉は英語と日本語のチャンポンだったが、英語の発音は他の日本人英語教師とは全く違っていた。ジョン万次郎が漂流の果てに米国で身につけた言葉を聞き取りしたカタカナ英語風発音。通じる英語と授業で習う文法中心英語とは全く異なっていた。独立宣言と憲法の宣言拠点となったフィラデルフィアの象徴としての言葉である。米国人はそれを訛りというだろうか?多分それは許さないだろう。