京都。多くのインバウンド トラベラーズが訪れる古都であるが、グローバルにおいて存在価値が高い先端企業が集中するテクノロジーシティでもある。この短い文章にカタカナが5つ。分かるけど、まだ許せる。次は如何でしょうか。
「京都レジリエンシーシティ・SDGsフォーラム開催」京都市民への広報である。こうなると一体何を伝えたいのか分からない。市役所の役人でも理解している人がいるのか?と訝りもする。開催フォーラムの中にシンポジウムがあり、パネリストとして。。。? フォーラムとシンポジウムの区別は?パネリストのお名前を見て「なんだ座談会」かいなと分かる。
レジリエンシーを日本語で言えば「災害、犯罪、貧困からの回復が可能な都市であり、サステイナブルで開発の目標を決める大会」である。これでも咀嚼不良となる。サステイナブル=持続可能として形容動詞が開発にかかるのか目標にかかるのか分からない。
何故こうなるのか? カタカナの直輸入で意味を咀嚼し、わかり易いように意訳する能力に欠ける人が増えてきたことと、単にカッコしいで使っているかも知れないが、使っている人さえ概念を理解していないことが多い。旧制高等学校の学生がショウペンハウエル。イッヒ・リーベ・ディッヒと叫んで、意識が高いぞ!と自慢していたことと変わらない。庶民はカタカナ用語を多様する人は本当は分かっていないと見抜いているものだ。
空襲と地震で壊滅的破壊された都市がフェニックス宣言したことがあった。こちらの方が一発で意味するところは理解できる。フェニックス=不死鳥は誰でも知っているからである。
FB仲間の一人はビジネス・マネージメント・コンサルタント。この人が言うには「工業社会が終焉し情報化社会に世界が移行しつつある中で、先行している米国から様々な組織マネジメントの考えや手法(成果主義、目標管理、リエンジニアリング、バランス・スコアカード、360度評価、サーバントリーダーシップ、コンピテンシーなどなど)が紹介 されました。しかし、それをうまく日本の組織に取り込むことができなかった。」と記載されました。
しかしながら、皮肉なことに成果主義と目標管理は多くの企業が採用した。採用できなかったのは全てカタカナ用語。日本語に翻訳か意訳がなされていない。これで概念から具体的な手法まで理解して実行するには無理がある。江戸時代はオランダからズックやランドセルが、ポルトガルからはカステラの単品商品はそのまま日本語にしてしまったが、哲学・概念はカタカナでは通用しない。逆に日本哲学や宗教を外国に知ってもらうには英語に的確な翻訳か意訳する必要ある。新渡戸稲造、鈴木大拙らが高く評価されている理由は的確な翻訳が出来たからである。
明治の文豪は意訳することが富国にもつながるとして色々工夫をしている。正岡子規や森鴎外など。。。とFBで返したところ、もう一人の知人がこのような文献があると紹介してくれた。それが福田眞人の「明治翻訳語のおもしろさ」である。
I love you.をどのように訳するか。意外に難しい。愛と訳すには仏教の愛とは違う。さりとて、恋、色恋、惚れた、ともやや違う。君を愛していると言っても日本人の琴線に共鳴しない。君が大好きだ!がまだ近いのだろう。この本では二葉亭四迷が浮雲の中でラブと表記し「愛=死んでもよい」と訳したとか。漱石は「月が綺麗ですね」と訳した。遠回りだが、前者は熱い情熱が、後者は好きですと平易な言葉では言い表せなく胸がときめいているのを敢えて抑えてやっと口にだした精一杯の言葉と解釈できる。この心の動きが読み取れるような意訳をしないといけないと考えたのであろう。
日本の科学技術が強い理由として学術用語が日本語であり原理的意味が納得できる言葉であること、日本語で論文を読むことができることが大きく関係している。
全ての科学技術を外国語で対応している国は強くない。表面だけの成果に活用できても基礎技術が育たなくてと嘆いている国がある。日本人のOBがスカウトされて教えても、とどのつまりは結果だけ教えて欲しい。出世には手っ取り早いとのことなのだろう。創造性は基礎分野の掛け合わせが重要である。医学、物理、生物、化学、機械、電気電子、農水産、数学、計算化学などのどの分野においても即概念を理解できることが本当の強みを発揮できるのである。明治時代の翻訳・意訳された方々に頭が下がる思いである。