企業の相反転

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子供のころ模型に利用する小型モーターといえばマブチモーターだった。小学校の夏休み宿題ではエレベーターを作った。長じてラジコンカー製作にも利用した。この小型モーターなしではクルマは成立しない。ウインドウ昇降のみならずモジュール内に数十個が内蔵され、更には、パワートレイン駆動体として利用が拡大している。その先頭にいる企業が日本電産。

日本電産の永守会長は一代で世界的大企業に成長させた。 先日、京都銀行が主催した永守会長の講演会があり、非常に面白い話をきいたので紹介する。会社創立後間もない時に米国の3Mから現状のモーターサイズを半分にダウンサイジングする企業に300億円の注文を出すとの知らせを受けた時の状況が面白い。世界広しといえど手を上げる企業はなかった。日本電産社内も同様の空気であったが、永守さんは社員を集めて「できる、できる、できる、できる、、、、、と千回声に出させた」。千回を終わったところで、「どうだ、出来る気になったか?」と尋ねた。社員は「その気になりません!」ときっぱり拒絶。そうすると、永守さんは「そうか、では更に千回だ!」。2千回を終わっても社員はNO! ではもう千回。。。で合計3000回の“できる”を唱えたところ、ある技術者が「できるような気がしてきた!」と。その後の結果は推察のとおり「半分のダウンサイジングのモーターが完成した」

「できない相」から「できる相」に社員の意識が変換したのである。相が反転したのは、永守氏の信念。チョットしたことで、従来の常識から外れる仕業が技術の進歩や営業戦略にも見られる。パソコンで成功したマイクロソフトはパソコンソフトの相に甘んじていたことで、携帯に出遅れた。携帯で一時期飛ぶ鳥落とす勢いのノキアは今のスマートホンを見越して会社上層部に訴えたが、ノキアの携帯シェア相に安住して取り上げなかった。それが致命的で今ノキアのノの字もみない。相反転の切っ掛けを見誤ると失地回復は絶望となる。

筆者は講演を話を聞きながら、比叡山の千日回峰行を思い出した。7年間に亘って比叡山の幾つかの修行道場を走破する荒技を975日を終えたあとは、断食しつつ寝ずに真言経を唱え続けることで悟りの境地に近づく修行。苦行をするなかで見えてくることを求めてのこと。2回も行った酒井阿闍梨の話はNHKで放映されたので覚えておられることおられるだろう。

永守会長の“経典”とも言えるだろう“できる、できる。。。。”と相通じるものがあると思われる。ご承知のように日本電産は京都生まれ。比叡山は滋賀と京都にまたがる天台宗のお寺。NHK大型時代ドラマの今年は明智光秀だが、彼が治めていたのは比叡山滋賀側の入り口の坂本。

京都市は東山と西山に囲まれた盆地。西山を超えると亀岡市がある。京丹後の入り口である。ここ亀岡市に京都学園大があり、定員割れが続いていたが、理事長に永守氏を迎えると、文部科学省にモーター学科を設立したいと申請したところ、前例がないと文部科学省は拒否した。そこで、学科の名前は工学部電気機械システム工学科、ちゃっかりモーター開発を目的の京都先端大学として亀岡市から京都市内に移してしまった。入学者はあちこちの試験での落ちこぼれを歓迎。ここから永守流。関西の私大では関関同立がトップ集団にある(関学、関西、同志社、立命)。これに直ぐ追いつくとハッパをかけ続けている。追われる大学もオチオチしていられない。

で、逃げられた亀岡市の市長はあの土地はどうしてくれると質問した。その答えが面白い。それを考えるのが市長のあなただと。満場2000人の中で指弾された市長。市政の経営者が市長であるとの認識がなく、補助金頼りで経営感覚のなさを曝露された。これは亀岡に限らず、日本の地方自治体ではよくある光景だ。 明智光秀が天下取りを祈願したのが亀岡「時はいま、天が下知る 五月かな」 亀岡がチャンスを逃がしたのは歴史の皮肉か。

永守氏が京都学園の理事長になってくれた。これで安心だ。との相にどっぷりつかって、後はお任せの意識がドンデン返しにあってしまった。相反転しては元に戻らない。

企業が大規模になるほど相反転は簡単ではない。企業には将来を見据えて考える人材が存在する。但し、多くは異分子・異端児として組織としては邪魔扱いされるのが通常である。入社試験では従来より発想の異なる人をと言いながら、その上位概念はいつの時代も協調性が最も優先される。なので、相転換できないと異分子・異端児はスピンアウト、その結果、その企業は時代の波(昔は30年だったが、今は10年寿命)の中では衰退速度を速める事態になる。。

従って、社員からの相反転は極めて難しいので、経営者自身が異端児にならざるを得ない。そのような会社は成長を維持できる。 経済同友会前会長の小林喜光が三菱化学(現ケミカル)社長当時、社員にAPTSIS方針を掲げた。Agility(早く)、Principle(原理原則),Transparent(透明性)Sense of survival (崖っぷち意識)Internationalization, Safety, Security, Sustainability であった。社員にAPTSISを唱えるように標語をあちこち貼ったが、異端児の筆者でさえピンとこなかった。 社員の反応状況を見た小林は新たにKAITEKIを掲げた。こちらは社員に素直に受け入れられた。 インパクトのあるメッセージはコンパクトであるべきである見本のような事例である。 その結果、具体的な素材、機能材料、商品開発へ面舵をきりはじめた。 永野流の“できる3000回”と同じ効果だ。 図はそのプロセスを概念化した。

只今現在取り上げる例としては良くないが、ゴーンが日産に来た当時の日産は次年度予算・技術目標を立てるに際には、できそうな目標を毎年繰り返していた。ところがゴーンは到底不可能と思われるレベルを掲げ、できないと承知しないとの強面路線を敷いた。これに反発して当然だったが、なんだかんだやれば無理筋目標が達成したとの話題を提供してくれたOBがいる。そのゴーンは連れ添いの色に染まり、当初の無骨男から金の亡者に相が反転して転落した。

企業も個人も「現在、どの相にいるかを認識し、異次元の相が次にやってくることを意識する必要がある」のだろうと思う。

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