「この分子式の意味が分かりますか?」と質問されて正直うろたえたことがある。極端に言えば、肉200g、タマネギ半分、塩胡椒少々、オイルスプーン1杯の原料比率表現のレシピから一体何の料理になるのかを当てなさいと聞かれたに等しい。分子を構成している原子配置がどうなっていて、それが他の原子と結合しているのか、またその様式によって全く立体構造や機能が異なる。
中学、高校初期の化学はさして数学の知識を必要としない一種の「記憶科目」の性格があったが、本当のことを言えば非常に複雑なので、そこそこに納めるには分子式は便利だったのが実態ではなかろうかと思う。水の分子式 H2O 誰でも知っている。上述の料理レシピ原料比率と同じで水素2個、酸素1個と原子の種類と比を表現しているだけで形や機能までは読むことは困難である。
同じ水の分子式でありながら形や機能が異なる事例を紹介する。
血液の主成分は水であるが、血管との界面では液体でありながら氷の結晶のような規則正しい形態であり、その上にやや結晶が崩れた層を有する二重パイプ構造となっている。血管を保護する目的でこのような構造になっている。(九大 田中教授)パイプの中を流れる血液中の水とは分子式は同じでもこのように形と機能が違うのである。体外人工心臓装置の材料は樹脂であるが、樹脂と水の界面において水の構造が体内血管と同じになるように工夫された樹脂材料設計をしている
翻って冒頭の分子式は複数の元素と原子数の比は表現してある。これから機能を紐解くにはコンピューターケミストリーを駆動させると幾つかのありうる結合パターン、立体構造が与えられる。コンピューターケミストリーは医薬品合成や治験予測が代表的であるが、樹脂材料でも添加剤の効き目などが大雑把であるが選別できるようになっている。記憶科目と勝手に思い込んでいた化学が実はレベルの高い量子化学を少なくとも理解する必要がある科目だったのだ。
冒頭の質問をした人には、それよりはやや低いレベルでの回答で勘弁してもらったが、剛速球の質問は刺激的だった。商品を販売するにはカタログや技術資料などで得られる情報に加えて、自分が納得するには分子式から何が読み取れるのか理解した上で販売したいとの思いで質問されたと推察した。希有な経験をした。