前九年の役・後千年の役

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このブログは政治に関わることは取り上げない。ただ世の中は人から成り立っていることから、人に注目することはあって当然だと思う。あの時から約1ヶ月が経過した。和光市に向かう車中で何気なく開いたスマホに唯ならぬことが。しばし絶句した。昼食を摂らずにお客さまのところへ行きTVを凝視。なんとか一命は取り留めて欲しいと希望しつつ、発生した場所が奈良西大路と聞くに及んで、我が脳は前九年の役にBack to Futureした。あまりの衝撃と咄嗟のことで記憶神経回路が間違って違う回路に短絡したのである。

前九年の役・後三年の役は教科書では簡単に触れるだけで、多くはNHK大河ドラマの“炎立つ”藤原三代の物語の冒頭での印象が強い。以下3行は仙台出身で歴史に詳しい同僚のチェックを受けて記載した。

奥州陸奥国を治めていた安倍大俘囚に対して、朝廷は陸奥守として源頼義を派遣し安倍氏(頼時、貞任親子)と戦を始めた。源頼義の弟頼清の郎従であった藤原清経は頼清が陸奥守として赴任した折に陸奥の国に下向し、安倍頼時の娘を妻に迎えていた。都から陸奥・出羽に対して金など税の圧政に堪忍袋が切れた安倍貞任が多賀城を攻撃。軍事派遣されていた源頼義は劣勢になったが出羽清原武則に援軍を要請し、清原氏は渋々参軍。経清は国か陸奥(安倍)か悩んだ末、最後は安倍と合流し戦ったが惨敗。今では放送できないシーンだが経清が川辺で斬首されるところは強く印象にある。その後、頼時の娘は息子(清経の子)を連れて清原武則と再婚することになるが、その息子こそが、のちの藤原清衡である。かくして安倍一族は滅び、九州松浦(説)や青森へ落ちていった。20年後に後三年の役となり最終的には安倍の血を受け継ぐ清衡が藤原姓を名乗り栄華を極めたのはご承知の通り。

長い、実に長い前置きになってしまった。平安時代後期の時の流れに乗ってしまった。

平安時代の大陸の玄関は若狭の国の気比(敦賀)か小浜であり、小浜には滅亡前から陸奥安倍氏から支援を受けていた芳賀寺がある。行基の開設と言われ重要文化財の仏像がおわす。火災により消失したが安倍康李が再建したと小浜の観光紙に記載がある。東北地区との交易は関係が深いのだ。

記憶では何年前に今回亡くなられた安倍氏が訪れたことをニュースが報じていた。

ここ、小浜市は京都への通じる鯖街道で若狭の海産物を物流する拠点であり、京の街に入るには大原の里での京野菜と合流して海、農産物を届けていることはよく知られている。寧ろ今後は(10〜20年後開通の北陸新幹線の駅として脚光を浴びているかもしれないが。

冒頭の記憶神経回路の混線に戻していえば、小浜は「お水送り」の拠点である。もうお分かりだろう、「お水取り」は奈良・東大寺二月堂。正確に言えば、お水送りは神宮寺で芳賀寺ではない、また東大寺と西大路は奈良県にあるとはいえ違う。だが、なんとなく安倍一族の栄華と無念にリンクしてしまった。筆者は小浜には小学校の頃に海浜学校に行った程度ではあるが、市民であれば何人かは「あっ!」と思っただろう。

そう、あれから1000年の経過した今、陸奥の人は「後千年の役」と言うであろう。

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