大阪万博 イノベーションの実践

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2025年の大阪万博が決定。「医療・健康が中心のテーマ」と聞く。競合した国・都市に比べてこのテーマでは数歩リードしていたこともあり、票田の多い国々では国境のない医師団をはじめボランティア皆様の日頃の活躍が功を奏したと思う。

思えば前回の万博では趣向をこらしたパビリオン前の長い行列、アポロ11号の「月の石」と明るい話題の中、山田洋次「家族」が九州炭鉱閉山に伴い北海道へ移住する途中で万博を見学する風景がおりこまれ、表裏の時代性を浮かびあがらせた。笠智衆さんの運命に流されていく演技は秀逸だった。石炭産業から石油にエネルギー転換していた1970年。その3年後に石油ショックや環境汚染問題など時間軸でズームアップしてみると当時の大阪万博が屈折点だったかも知れない。「人類の進歩と調和」 パビリオン間移動の小型バスはEV車だった。それが50年後では公道を走行している。技術は調和しつつ進歩した。政治面での人類に進歩をもたらしたかは疑問だが。

では今回はどうだろう。医療・健康はテーマとして悪くない。長寿社会を謳わなかったには開発国への配慮があったとのことではあるが人類共通のテーマである。

iPS細胞の範囲拡大、AIによるビッグデーターからの診断能力の向上、CT,MRI,PET、超音波診断に加えトモグラフCT(3次元動的CT)などが拡充されることが期待できる。量子コンピューターによる分子設計での創薬やコンピューター内での治験などを想像するだけでエキサイテイングになってくる。歯科についても口腔内施術のロボット化が予想され(一部着手している大学がある)。ナノテクが更に進化した機能を発現するだろう。

一方で、技術の進化と生命倫理問題は隣り合わせにある。 このブログがアップされるタイミングではWOWOWドラマ「パンドラ AI診断」は継続中なので結末は置くとして

毎日発表される膨大な論文から診断され手術したところ、失敗したとあって係争。診断は正しいのか、その診断に誰が責任を負うのか、果たして診断は正しいが手術の過程で見落としていたのかなど、今後あり得るケースを取り上げている。実に面白い。 一昨日政府はAIを利用する際の責任問題について7原則を近々まとめると発表した。AIの責任は利用する企業・利用者にあるとの案である。AIがブラックボックスでは社会の混乱が予想されるのだろう。 

前日まで健康に良いと言われていた食品が、ある文献では逆だとの報告があれば、論文査読者の資格、過去の実績なども含めてのAIに取り込んでの判断になる。言うは易く実行には気が遠くなる作業工程が必要だ。時間はかかる。でも現場の医者が毎日治療しながら膨大な論文に目を通すことはもはや無理。技術は初期の段階では受け入れられないのは過去累々。最近の事例ではホンダがジェットのエンジンを翼の上に乗せた。ほとんどの技術者は嘲笑した。でも実績を積むと認めた。AIは過去帳の整理には適しているだろうが、クリエイティブは苦手なのだろう。

 更に9月のHealth Day Reportには「つい先延ばしに関与する脳領域」が掲載されたいた。

なんでも扁桃体の領域と行動に移す脳領域の距離が離れていると行動を先延ばしになるらしい。この距離はMRIで測定することが可能。これが本当なら、生まれる前からの診断や入社試験でのMRI測定が別の名目で実施されるとしたら、人権はもとより本人の努力など無視することになりはしないか杞憂かも知れないが気になる。

今回の大阪万博誘致に関係者の足並みが揃わなかったとのこと。安部首相のGo!のかけ声で途端にやる気になったとある。勿論経済面が誘致問題の足かせにはなっていた。でも医療・健康の新技術・新社会イノベーションから得られる収益と何もしないで出血による大きな政府のままでいる経営とどちらが有利であるか計算ができなかったようだ。このブログでも記載したが機会損失は後からは「あとの祭り」

経営者集団でさえ、このようだから、SNSの反響をみると約70%が否定的で、相変わらずのハコ物行政、サンクコストが問題だ、、、、など過去の事例踏襲コメントが多い。バブル崩壊の足音が聞こえてきた東京万博構想は今思い出してもテーマが何だったか分からない。開催動機がお台場の土地活用副都心計画だったので反対の声には頷けるところがある。 

横浜は市政100年を記念してミニ万博をみなとみらい地区振興目的で開催した。動く歩道は今でも活躍しているが、リニア車両が実際に走行したことを知っている人はほとんどいない。都会での万博とあって盛況ではあったが、テーマ力がなかったので、その後の開港150年記念事業は惨敗した。開港記念の時に羽田空港とのアクセスなど都市デザインをしていればもっと世界のヨコハマになっていたと想像する。

 愛知万博のテーマは「デザイン」だった。このネーミングはダサい日本製品を洗練されたデザインに転換するための刺激策だと受け止める人が多かったと思う。しかしながら結果は単なる外観の形状、色彩にとどまらず、「機能設計=機能デザイン」として多くの工業製品が開発されたことは、あとあとになって気がつく。

 2025年がAI実践の年だとしたら、エネルギーの化石燃料依存は限りなくゼロに近くなり、従来型の貨幣は姿を消し、銀行は形を変え、右から左のモノや情報を取り扱う商社も姿を代えざるを得ない。そんな時代の「医療・健康とは」を考え、さすれば積極的に参加する姿勢を持つことが精神的には必要だろう。

ロボットが稼ぐベーシックインカムで生きる意味を問われるのは精神的に辛い。一方で別の文化が発達する可能性もある。それもイノベーション実践の副産物。それならそれも良いだろう。

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