気候変動とスポーツのあり方

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

10月10日は「体育の日」。1964年東京オリンピックを記念して2年後に制定された休日。そうオリンピックは秋に行われていた。秋は夏で疲労した体の回復・健康の季節である。下半身の運動により血管が復活。血管を良好に維持することは諸病気のを遠ざける。夏は過激な運動をするべきではない。それが常識だった。今のオリンピックは下記諸事情にあり夏に実施。 2020年(コロナで1年延期)の東京オリンピックでは夏開催。マラソンは北海道でやらざるを得なかった。

今年の夏を見ると、欧州の43℃越え、日本の40℃が常態化する環境ではスポーツのあり方も変わるのだろうか?と妄想した。

そのキッカケは北海道大学および森林研究整備機構が発表した「気候変動でスキー場はどのぐらい減るのか~気温4℃上昇で安定営業できるスキー場は全国で7か所に〜」である。内容はこの題目で大凡予想できる。冬場のスキー、ジャンプ競技選手の数は極めて少なく、屋内のアイスホッケーとスケート競技だけになる日が来るかも。

冒頭に記載したが、昔は気候が穏やかな秋に開催していたが、今は商業主義のもと夏開催となっている。4℃上昇したら開催できるのは南半球の南極に近い地区での夏に限定されるだろうが、経済的事情から実現はしない。悲観的に見れば今のオリンピックは夏も冬も自然消滅するかも知らない。

逆に言えば、これがチャンスなのではないだろうか。

現代オリンピックが抱える「歪み」の解消へのキッカケになるのではないか。

歪み1. 「税金投入」から「商業化」への舵切り

歪み2. グローバリズムと巨大マネーの集中

スポーツが「アスリートと観客のもの」から「巨大資本のコンテンツ」へと変質した。テレビ視聴率が稼げる日程・時間帯」が優先し、選手の事情は重視されなくなった。

そもそも、近代オリンピックの父であるクーベルタン男爵が掲げた原点(オリンピズム)は、「スポーツを通じた人間の育成と、平和でより良い世界の実現」で、そこには莫大な金銭の授受も、国威発揮のための過剰なナショナリズムも含まれていない。

そもそも論を言えばスポーツの語源であるスポーツの原点:「デポルターレ(Deportare)」そして古仏語の desportは、port(場所)をdes(離れる)の合成語であり、「(日常の義務や労苦から)離れる」「気晴らしをする」という意味なのだ

  • かつて:勝ち負けや金銭のためではなく、日常のストレスや重圧から解放され、心身をリフレッシュするための営みだった。
  • 現代のオリンピック:国威発揮や巨額のビジネス、過酷な勝利至上主義という「最も息苦しい日常(義務)」の象徴になってしまった面がある。

語源に立ち返れば、「スポーツとは生きる歓びや解放感を得るためのもの」であり、本来はすべての人々の身近にあるべきもので「未病・免疫・ヘルスケア」へのパラダイムシフトに運動があると考えるのが自然なのだ。

近年のパンデミックや急速な高齢化を経て、人々のスポーツ観は「観て熱狂する極限の競技」から「自らの生命力を高め、未病を防ぐための運動」へと急速にシフトするだろう。

  • 免疫と運動の関係:

適度な運動が免疫機能を活性化させ、感染症のリスク低減や生活習慣病の予防(未病)に寄与することは、現代医学でも科学的に証明されている。

  • 「耐える」から「予防する」へ:

パンデミックにおいて命や健康を守った根底には、日頃の運動・食事・睡眠による身体のベースライン(基礎体力・免疫力)があった。

もしオリンピックや国際大会が、「コンマ数秒を争う極限のショー」だけでなく、「人間がいかに運動を通じて心身の健康や免疫を保ち、豊かに生きられるか」を示す実践の場であったなら、人々の共感の輪はまったく違う広がり方をするはずだ。

すなわちこれからのスポーツが目指す姿は

「興行・ビジネスとしてのスポーツ」から「人々の生命力やwell-being(幸福・健康)のためのスポーツ」へ。一人ひとりが体を動かし、免疫を高め、人生を豊かにする「生きるためのスポーツ」

「金・金・金」のマネーゲームから脱却し、誰もが「これなら自分も参加したい」「運動で心身を健やかに保ちたい」と思えるような原点回帰の価値観こそ、これからの時代に求められているスポーツのあり方と言えるのではないか。

筆者は参加が許されているプロジェクトでは未病・予防の観点からまずは脳の健康と体の健康に注目して活動している。ご興味があれば参加しませんか。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。