新聞が伝えた明治

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中高校生時代にこの展示会を見ることができたなら、おそらく日本近代史を今まさに同時刻で発生しているが如く印象深くかつ理解するであろう。教科書だけでは理解できないが、僅か2時間の展示コースだが約50年の歴史が細部まで手に取るようにわかる。今年2018年は明治から150年。節目を記念して展示会が横浜日本新聞博物館にて開催されている。(930日まで)

サブタイトル「近代日本の記録と記憶」として慶応4年から明治45年までの新聞記事が展示してある。新横浜に近い鴨居には5万点に及ぶ新聞記録があるとのこと。その一部を展示している。一部とは言え見ごたえがある。

まず慶応4年。戊辰戦争が終結し明治がスタートする。

一.廣く会議を興し、万機公論に決すべし 一. 上下心を一にして盛んに経綸を行うべし。で始まる五箇条の御誓文 由利公正起案の太政官日誌。教科書では確かにみた。記憶したものだ。太政官日誌をみると幕藩体制から新時代への転換に際し、かくなる高邁な指針を提出したものだと感心する。現存する記録物のもつパワーのようなものを感じた。教科書にはない。

明治にはなったが、官軍の士族は武勲に対する功労がないなど旧時代の武士の感覚が残っているのか、あちこちで士族の反乱が発生。佐賀の乱、秋月の乱、熊本神風連の乱。乱の名前と首謀者の名前だけは憶えている程度。それを伝える新聞で全容が理解できた。そして西南戦争である。当時の従軍記者のリポートを見ると、何時に戦の音が消え、何時に西郷が自害したと、あたかも目撃したように記事が起こされている。

当時は写真がない。版画を挿入しているが、1枚どころではなく多数の版画が新聞発行までに出来上がっていることには関心する。それも上出来の仕上がり。江戸時代からの美人画で活躍した絵師の力量が分かる。鏑木清方も版画を提供している。この流れが伊東深水まで系譜があるのか。。と想像するのも楽しい。 (明治21年やまと新聞 西郷隆盛)

 

福沢諭吉の新聞は広告からの収入を重視しており、分厚いが広告が占める割合が高い。新聞を経済ツールに利用することを率先したターニングポイントだった。それまでは政党が独自の主張を発露する場として新聞を発行することが多く、政変の度に改廃がつきものだった。花王、恵比寿ビールなど今もある企業の広告。化粧品では対象が男・女の順番。男にはニキビが取れる。肌も綺麗になる。女の人向けには肌がきめ細かくなり、そして万能に効果のありと誇大広告。エッ?当時の男が化粧品?と不思議。財布を握っている男も対象に入れておかないと売れないと読んだのか色々想像できる。キャッチコピーに思わず吹き出した。コピーライターは「かわら版」出身者ではないだろうか。

毎日、読売、遅れて朝日新聞が出そろった。明治25年頃には新聞発行も軌道に乗り、やがて小説家もかかる新聞社に社員として採用され、連載小説を掲載する。夏目漱石は朝日新聞に「吾輩は猫である」「それから」を連載。掲載してある新聞を展示。紙や鉛が不足していたのか、1枚にギッシリ詰めているので、文字は小さい。それでも当時の読者は毎日食い入るように見ていたのだろうと想像するだけで面白い。識字率は80%以上だからビジネスになった。

当方の勘違いかもしれないが、読売新聞のタイトル「新」にわざわざ志のルビを打ってあるには、意味があるのだろうと思った。今のマスコミに志があるのかと問いかけているようにも思ったからである。

今月、震度7の直下型北海道胆振東部地震が発生した。明治時代も大規模地震・火山噴火は一大事。濃尾尾張地震(約7000人以上犠牲の直下型)、磐梯山噴火(477人犠牲)、北海道東沖地震など。詳細報告と同時に新聞は大きな紙面を割いて義援金募集をかけている。今に通じる互助精神。150年前いやそれ以前から継続しているからこそできるのであろう。

冒頭の経綸・公論であろうか意外にも女性が演説したとの記事がある。京都では8歳の女子の主張に聴取は圧倒されたとの記事があるのを見つけた。歴史教科書では取り上げない事案が事実としてあったのだ。ifは歴史ではないが、もしあの時を契機に女性の地位が向上していれば、その後の男社会の理屈・メンツがもたらした不幸な事態は避けられたのではないかとも思い、それだからこそ、この歴史を将来に活かすにはどうしたら良いのかと、小さな囲み記事は訴えているように思えた。

日本新聞博物館 みなとみらい線 日本大通り駅(東急東横線・元町中華街行)

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